若先生の共育diary♪

もっと楽しみながら学びながら教員したいなぁと思ってblogはじめました。実践もどんどんしていきたいので、よろしくお願いします。

ディベート大会から考えたこと ※文章復刻

3月の出来事ですが、今日は久々のディベートの学びなので、前書いた文章、読んでみました。

今日は改めてコミュニケーションも掘り下げてかんがえたいです。楽しみ!

 

ディベート大会から考えたこと

 もう1週間も経ってしまいましたが、先週はいの町の小・中学生のディベート大会がありました。
1週間経って、その学びを学校で意識することで考えたことも多いので、そのことを書きたいと思います。(熱中して書いていたら、長くなりましたが…)

ディベートとは、2つの立場で分かれて、論題に対して、根拠を持って主張やそれへの反論し、意見を高め合うゲームです。
つまり、コミュニケーションを通して、相手や審判を納得させるゲームなのですが、1年間勉強して、やっと、自分なりにですが、根拠を持って、どっちが勝ったかなぁと判定できるようになりました。

うちの学校も出たので、自分も小・中学生合同の練習に参加し、初めて審判をしましたが、正直うまくできなかったので、頭をフル活動させる気で行きました。
実際頭を使ったし、子供達の白熱する姿、それを見ながら考える大人達、とても感動しました。実際審判や菊池先生と、少しずつ勝敗を選んだ根拠が重なってきて、あぁこう考えれば良いのかと思えるようになりました。

菊池先生のコメントでは、3つ印象に残っていることがあります。そのことを基に学校生活で考えたことも書いていきます。
①「聞こえなかったので、もう1回言ってください。」が言えることがコミュニケーションの土台の1つ
 立論の後にある質疑のところでは、即興で相手の質問に反応しなければなりません。そんな時には、「もう一度言ってください」と聞くのは、当たり前ですよね。でも難しい。

 この1週間で責任をもって反応すべき場面が多いなと思いました。例えば、クラスで1人の不適切な発言があった時の話です。担任の先生はおかしいと思ってその言葉について掘り下げていきますが、「みんなはどう思う」と問いかけても、反応できる人は少なかった。前から感じるがクラスに主張したものが勝ちみたいな雰囲気があるように感じる。僕も含めて、これまでの指導でクラスのことを自分事として、考える機会をもっと作るべきだったのかもしれないと感じた。
児童によっては、聞こえなかったとしても、「聞こえた?」と問わないと、なかなか無反応であることもある。でも、それを繰り返して、みんな少しずつ心の声を出すようになってきた。オセロのように少しずつ立場が逆転してくる。発端の発言は、あいさつ運動の当番と、障害を持っている児童の生きる上で重要なことの優先の話であったが、途中で立場が変わった子は、その重要なことにより1年間で何分かかるのか計算までもした。最終的に納得に近づいたので、僕も「納得解」と言う言葉を、計算などほめながら、伝えたが、そうやって話すことをめんどくさがってしまうのは、今までいい意味で泥臭い話し合いを避けていてしまっていたからかもしれないと感じた。障害のある子の時間を例に、誰かの立場になって考えるいい機会だった。

②頭が△になるほどそれだけ、一生懸命考えているんですね。
 ある試合で、第一反論は基本的には、相手の立論に対して、反論しなければいけないのだが、(相手の立論を崩すゲームだから)相手側の質問の部分を取り出して、反論してしまっている試合があった。僕もそれには、気づいて、立論を崩そうとしていなかったことを勝敗の根拠に入れた
その判定の後の菊池先生のコメントである。自分には、勝ち負けを中心に考えているので、そのようなフォロー発言は浮かばなかった。
 
 実は、ディベート大会の前に学校で行った時、先ほど書いたように僕が判定をした。そこで、勝敗だけでなく、お互い良かったところを見つけようと思って見ていたものの、フローシートを見ながら、うまくそれを説明できなかったのを、思い出した。実はその後、生徒同士のケンカが起こってしまい。その時本気で、みんなゲームに臨んでいるんだと感じたのであった。今回は立論を自分たちで考えたと言うのもあり、本気である。そう言うところをもっと強調すべきであったと感じるし、その視点を持って指導することで、本当にいい意味でゲームとして、意見を高め合うことの楽しさに白熱している人達が気づくのだろうと感じた。

③本当に考え続けるディベートラソンでしたね…ディベートが難しいんではなくて、コミュニケーションが難しいんです。
 この言葉に一番感動した。本当に会場全体が考えあった空気だったから、すっと胸に落ちた発言だったように思う。
 
 心の部分はどうやっても、見ることはできない。よく子供達にも、心で思うことは自由だけど、人間には本能だけじゃなくて、理性もあるんだから…と伝えるが、コミュニケーションを通して、もっとより良い集団になっていく、自分たちは変わっていくということをもっと強調してあげたいなと感じた。だからこそ、教師はまさにMCで、もっと子供達が自分たちのことを自分たちで考えて、未知であるお互いを知ることを楽しめる環境を作ってあげたいと感じた。
 
 

 その会、そこからの1週間、いろいろ感じることはあったけれど、コミュニケーションが多様化している時代だからこそ偏らないようにしていきたい。
 昨日兄と連絡を取っていて、(そんなことは滅多にない。通じたことに驚きである笑)昔二人で行っていたポケモンカードの話になったが、あれもコミュニケーションだよなと感じた。(実は、ビギナーズラックだとしても、中部大会3位をとるほど強かった。)
 あの時学んだ、試合でのコミュニケーション、トレードなどまさに社会で行うことに近いと今では感じる。まぁそれは、ルールやカードで作られた世界の根拠ではあるけれど、人と人がいなければ、行うことはできない。
 まぁトランプも目の前ゲーム機置いて話しながらするのも同じと言えばそうだろうけど、今は通信なども出てきて見知らぬ人と楽しめる時代である。

 最近朝や放課後、子供達とバスケや鬼ごっこが多いが、子供達と鬼ごっことか、その最たる原始的な遊びじゃないかと誇りに感じるようになった。自然と笑顔になったり、時にはルール巡ってケンカおきたり、そうやって人は学んでいる。

 だからこそ、(話しが逸れたが、)最初はルールが複雑に感じるディベートもやってみるととても単純である。いかに私たちが話し合いを複雑にしているか考えさせられた。そんなゲームを通して、話し合いの基礎、コミュニケーションを高め、実生活に活かせるように育てていけば、きっと学び続ける人を育てられると感じた。日々頑張ります。

(書き始めたら長くなりましたが、)また、ディベートを学べるのが楽しみです。
プライベートで音楽仲間ともできたら、楽しいかも!